2012年4月30日月曜日

英文法の認識について

英文法の認識について

英文法の認識が何故、英語を学ぶ人や教える人に誤差があるのでしょうか?



鈴木拓氏は





そのため、学校では英文法は誰でもできる機械的な作業として教える傾向があります。

皆さんも経験があると思いますが、問題のパターンを暗記していくのです。



例えば、"関係詞の問題で先行詞が場所ならwhere"というパターン暗記です。

さらに例外パターンにも対応できるように"

先行詞が場所でも後ろにvisitがあればwhichかthat"というようにどんどん覚えるものが増えていきます。



しかしこのパターン暗記は英文法の本質ではありません。

学校での英文法というと問題を解くのがほとんどです。しかし英会話やリスニング、リーディングといった

実際の英語の場面では問題を解いたりはしません。



これからは"問題を解くため"ではなく、

"書いてあることを理解する"、"相手に言いたいことを伝える"、"相手の言っていることを理解する"

ために勉強することになります。



ですからいくら英文法の問題が解けても意味がないわけです。

逆に言えば、問題が解けなくても自分がちゃんと使えるように理解していればいいのです。





英語苦手解消のカギは英文法が握っています。

私は高校2年生の冬ごろまで名詞、形容詞、副詞が何なのかも全然知りませんでした。

しかし英文法が分かるようになってきてからは一気に英語苦手が解消されました。



キーは"理解すること"です。"この問題はこのパターン"ということに注目するのではなく、

"なぜこの問題の答えはこれになるのか"に注目してください。



と英文法を重要視していますが



他の人で



・英文法学習に目を向けると

これをそっくり英文法で考えれば、何となく現状の学校教育も理解できるのではないか。何もかも英語「体系」の暗記であり、そこから逸脱してはならないというやり方である。



まず英文法から出発し、そこからの逸脱を認めないとするのがそもそもの誤りといってよい。逆なのである。英文に触れるうちにパターンを見出して、

それをまとめ直したものが英文法そのものである。つまり現代の学校教育は、全く逆のやり方で英語を教えているのである。



と否定的な考えを持つ人もいるのでしょうか







個人的な意見かもしれませんが、日本の英語教育は英語でパスルと思っています。そもそも、会話に答えがあること自体おかしいと思っています。ですから、私は英語の勉強をするときは、文法は、日本語と違って型が崩れると通じにくくなるため、会話にとっての手段としか思わないようにしています。文法にこだわると、イコール答えは?ってなってしまいます。会話にはこんな答えなんか要りません。正しく通じればいいのです。英語でパズルは、単なる受験英語で、日本人が英会話を勉強するにあたっての妨げになっています。ですから、文法は英会話するための手段の一つと思っています。その理由は、日本語は、

(例)私が買った本。 =私が本買った = 本私が買った

これって日本人なら言いたい意味が解ると思いますが英語では文の並びの決まりがあるので意味が解らなくなるのです。ですから文法は会話の手段で、実際は、ネイティブな英語が使えるように文法はあくまで土台で、映画や本物の外国人など見て、話して、聞いてとする必要があると思います。あまり文法の型にこだわらず、それを応用してこそ英会話が出来る秘訣だと思います。

これもまた、個人的な意見ですが、私はパズル英語の学校教育なんて信用していません。逆に英会話を出来なくしているだけだと思います。








◎言語活動は無限です。いわば、大海原のようなものです。これを、私たちが呑み込もうとすれば(つまり、外国語を学ぶ)どのような方法がとれるのかという問題でしょう。

最近、赤ちゃん(1歳半)に接する機会がありました。言葉らしい言葉(外言)は30くらいですが、大人が言ってることは相当理解できてる(内言)という印象がありました。これって、どういうことだろうなと思いますか。この段階ですでに言葉の骨格(私の考える文法です)ができつつあるのです。あとは、ほとんど応用編なのだと思います。これが、大海を飲み込むことなのではないですか。

さて、骨格習得に失敗した私たち学習者はどうすればよいのでしょうか。「文法」とか「単語」などがもっとも手っ取り早い手段だと常識的に思います。何かわかったような気になりますから。実際、私も文法中心主義に頼ってきました。しかし・・です。能動態と受動態。書き換えはわかりました。しかし、書き換えられた受動態と、もともとの能動態とは、現実の言語世界の中で本当にイコールの関係にあるのかという点では、少しもわかっていない自分があるわけです。しかも、わからぬままに朽ち果てそうです。どうも、赤ちゃんの習得する骨格=基本文法と、私たちのいう文法とは全く別物のようです。それと、赤ちゃんは、結構間違えているのですよね、使い方を。その時点で周りの大人=母親や祖母がどうするのか見てると、修正はしてあげてるんですね、その都度。しかし、修正の仕方は、いわゆる○×原理ではない。赤ちゃんが大人に向かってどんどん発してくれる、それを喜びながら正しい言葉遣いなり行動の仕方なりを包み込むように返してやるという感じですかね。

結論ですが、目指す方向は「言語の活用」で、両論一致だと思います。だけど、方法はいろいろあって当然だという気がします。ただ、「骨格」をつかむためには、少なくとも私たちの立場としては極端を排し、多面的に学ぶ態度が大事かなと思っています。文法的な事柄は大事にする必要がありますが、こだわると先が進みません。間違い覚悟でどんどん進む中で、文法も進化するし、総合力も高まる、そういうことなのではないかと。質問からは少し外れましたかね。

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